ここ最近の『ウルトラマンメビウス』の面白さが異常です(>_<!!
などと、いつぞやの日記と同じ出だしで始めてみちゃったわけですが(^−^;)、『メビウス』がここ最近は本当に面白いですよ。実は僕、前作の『マックス』も何話か観たんですけど、それやメビウスの序盤などとは比べ物にならないくらい作品にノれてます。 んで、なんでここまで最近の『メビウス』が面白く感じられるのかな?とちょっと考えてみたんです。すると、その大きな原因が、『メビウス』におけるウルトラマン像が視聴者にとって非常に親しみやすいものとなっているからなのではないかな、と思い至りました。
『ウルトラマン』というのは元々、子供たちにもわかりやすいヒーローとして、「人を超えた、人とは別格の、神のような存在」というコンセプトで生まれたものらしいです。ですが、やはり子供たちにもっと親しみを持ってもらうため、「等身大の人間のような要素を持つウルトラマン」というコンセプトの作品作りは、結構昔から行われてきたものだとか。 確かに、ざっと思い出すだけでも、例えば『ウルトラセブン』はモロボシダンがウルトラマンとして宇宙人と話し合うシーンも多かったような気もしますし、『帰ってきたウルトラマン』でのウルトラマンに変身する青年が周囲との軋轢に悩みまくるシーンはやたら記憶に鮮明です。 ですが、そのいずれも、この『メビウス』ほどウルトラマンに親しみを感じる事はありませんでした。それは何故か。 それは、かつての「等身大なヒーローとしてのウルトラマン」が、「孤独に悩み、苦しむ様」を“人間らしさ”として前面に押し出したのに対し、今度の『メビウス』は逆に「仲間と話し合い、対話によって問題を解決していく様」を“人間らしさ”として前面におしだしていたからなのでは、と僕は考えます。
ウルトラマンに限らず、昔のヒーローは「人間臭さを出すため」ということで、周囲に自らの正体を明かせないことの孤独、そしてそこから来る苦悩を描写するのが定番でしたね。そうすることで、「ヒーローも悩み、苦しむんだよ」と視聴者にアピールし、同じく悩み苦しみながら毎日を乗り越えている視聴者たち一般人に共感を持たせようとしたのでしょう。 しかし、よく考えてみると、実際にこの世の中で成功している人、幸せになっている人は、孤独に悩んだりしない事に気付きます。実際に幸せを手に掴んだ人は、仲間に恵まれ、彼らと力を合わせてきたからこそ、有形無形に関わらず本当に望むものを手にできたはずです。 故に、もうちょっと考えてみると、一昔前のステレオタイプだった「孤独に悩み、苦しむヒーロー」は、実は子供たちの憧れの対象として、あまり相応しくないのでは?とも思えてしまいます。 何しろ、彼らを真似して突き進んで行っても、ヒーローのような超人的な力を持ち得ぬ我々に待っているのは破滅への道でしょうから。そのような「決して届かぬ完全な偶像」を憧れとして子供たちに宛がうのは、どこか不健康であるかのような感じさえしてしまいます。
人はコミュニケーションの動物です。そしてコミュニケーションとはギブ&テイク。こちらが腹を割って話さない限り、向こうもこちらの想いを理解してはくれないものです。 そして、人はコミュニケーションによってしか、何かを生み出せないものです。コミュニケーションを止めてしまっては、そこに待っているのは『停滞』でしかないでしょう。
しかし、ウルトラマンシリーズは、この「孤独なヒーロー像」を今まで堅持してきました。確かにウルトラ兄弟という仲間はいたでしょうが、それは基本的に「外部からの助っ人」なのであり、作中の舞台である地球の内部に、彼の正体を知り、その上で困った時に何でも相談し合える「内部における仲間」の存在はありませんでした。正体バレはいつも最終回かその直前であり、作中で自らの進退に関する重要な問題が発生した時も、大概においてヒーローは自らの力だけでその問題を解決せねばなりませんでした。 この要素は常に表面化していたわけではなかったのでしょうが、僕が常々、平成ライダーシリーズに比べてウルトラシリーズが(対象年齢とか関係無く作品そのものの質として)「遅れているなぁ・・」と思っていたことと、このことは無関係では無かったと今なら思えます。 仮面ライダーシリーズにおいては、もう六年も前、『クウガ』で既に、「孤独なヒーロー」からの脱却に成功していたわけですから。そしてその後も、「ヒーロー(あるいは怪人)とそれ以外の一般人のコミュニケーション」は、シリーズを通じて何度も丁寧に描かれてきた要素ですから。 このことが、一方では仮面ライダーシリーズに「子供番組の枠を超えたリアリティ」を持たせ、一方ではウルトラシリーズを「所詮は子供だましな感が否めない作品」に留まらせてしまっていた(あくまで僕の主観ですが)、大きな要因ではないでしょうか。
ですが、ここに来て遂に、待望の「地球人と腹を割って対等にコミュニケーションができるウルトラマン」が誕生しました。 先週も今週も、時には立ち位置の違いから地球人の仲間たちと意見を違えながらも、それでも話し合いを続け、そしてメビウスは着実に問題を解決していきました。 そして、ここ数話の『メビウス』には、今までのウルトラシリーズにはない「リアリティ」の存在を強く感じました。話の内容が特に難しくなったわけではない、むしろいずれも単純な子供番組の王道的物語だったにも関わらず、です。
人は、一人で問題を解決することなどできません。特定の人物に都合よく描かれた“物語”などではない、万人に平等な“現実”においては、如何に超人的な能力や精神力を持とうとも、仲間とのコミュニケーション無しで何かを成し遂げる事は不可能なのです。 故に、これからの「子供たちの憧れとしてのヒーロー像」のあるべき姿とは、「一般人の仲間を作り、彼らを大切にし、有事に際しては彼らに相談しそこから打開策を見出していくヒーロー」こそが相応しいのではないか、と僕は考えます。 そして、ここ最近の『ウルトラマンメビウス』におけるウルトラマンは、正にそういった存在に変貌を遂げました。同時に、お話に今までのウルトラシリーズに欠けていた「深み」のようなものが加わったように感じます。 15年前、ウルトラマンたちに憧れた一人の子供として、これをきっかけに『ウルトラマン』という作品が更に質の高いものに進化してゆくことを、切に願います。
・余談その一 次回の『メビウス』はウルトラマンレオ登場みたいですね(^−^。次回は、今日みたいな難しいことは考えず、ミーハーな気分で新旧ヒーローの共演を楽しもうかと思ってます。 とは言え、『レオ』はレンタルビデオでも一話も見たことが無いのですが・・(^−^;。
・余談その二 上ではああ言ってますが、最近第五シーズンをレンタルで観てる『24』の「孤独なヒーロー」であるジャック・バウアーも、メチャかっこよくて好きです。 思うに、「自分は絶対なりたくないけど、傍からみるとカッコイイし燃える!!」という“大人の娯楽”として、「孤独なヒーロー」は永遠に生き続けていくのだろうしそうあるべきなんだろうなぁ、なんてことをちょっと思ったり。
|